奈良歴史漫歩 No.069    新薬師寺七仏薬師堂跡       橋川紀夫

伝説から歴史の舞台へ、天平の新薬師寺金堂跡出土



基壇中央の延石と雨落ち溝

    大極殿の規模を超える金堂


 間違いなく、今年の考古学界のトップ級の事件だ。新薬師寺七仏薬師堂(金堂)跡が、長い忘却を破って古代の地層から現れたのである。

 現新薬師寺の西側に広壮な伽藍をもつ創建時の寺があったことは、「東大寺山堺四支図」に描かれた7間の新薬師寺堂から明らかである。また周辺には本薬師とか塔之内といった小字名が残り、奈良時代の瓦が出てきている。したがって調査すれば何かが出てくることは予想できたが、金堂跡が、しかもその全体が一挙に現れたのはまさかの驚きであった。

 10月25日、現地説明会が開催された。現場は、奈良市高畑町の奈良教育大学構内である。構内の東北隅にあたり、東に150mの場所に現新薬師寺がある。

 奈良教育大学附属小学校の校舎建て替えによる事前調査であるが、戦前には陸軍奈良連隊の駐屯地であり将校集会所があったという。

 出土したのは、壇正積基壇の最下段の延石と雨落ち溝である。延石は二上山産凝灰岩で幅45cm、厚さ20cm、長さ70cmから1mある。雨落ち溝側がかなり薄くなっていたが、これは雨滴が穿ちつづけたことによるのだろうか。延石がL型に接続する基壇の東南隅も検出された。

 雨落ち溝は幅60cm、深さ10cm、延石の反対側は玉石が連なって溝を区画する。

 基壇の中央から東は地山を削りだして造り、西側は地山が落ち込んでいるので版築をほどこす。

 版築で固めた西側の基壇から、礎石据え付け穴が4個検出された。最大のもので2.9m四方あり、人頭大の地固め石が入れてあった。据え付け穴が見つかった場所は、ちょうど建物の南西隅にあたる。据え付け穴の間隔から計測して桁行4.5m(15尺)、梁行3.9m(13尺)となる。

 雨落ち溝には瓦が堆積して、創建瓦と見られる複弁八弁蓮華紋軒丸瓦や均整唐草紋軒平瓦も見つかった。奈良三彩の破片や10世紀ごろの須恵器片も出土している。

 基壇の東南隅と建物の西南隅が検出され、桁行きと梁行きの長さも分かったことで、基壇と建物の平面規模が推測できる。母屋が7間×2間、廂を入れて9間×4間、さらに裳階が付いて11間×6間となり、およそ東西54m、南北27mの規模だという。

 これは、現在復元工事が進む平城宮第一次大極殿の44m×19.5mを上回る。ちなみに興福寺中金堂は37m×24m、東大寺大仏殿57m×50m(創建時86m×50m)であるから、その大きさが想像できるだろう。

 この建物に回廊が取り付いていれば金堂であることは確実となるが、基壇の側面は発掘調査範囲外であるために不明である。したがって講堂である可能性もある。しかし、基壇の残存する高さが1m以上あることと、基壇の南前面40mに延長したトレンチからも建物の痕跡が見つからなかったことから金堂であることは間違いないというのが、調査担当者の意見である。

 また謎も出てきた。延石が出土した基壇前面中央部は階段が付くのが普通であるが、まったくその痕跡がなかったことだ。


    丈六七仏薬師の偉観


 これほどの大きな金堂であったのは、七仏薬師がここに祀られていたからだ。『東大寺要録』の中で、「天平十九年(747)三月、仁聖天皇(光明皇后)、聖武天皇不予により新薬師寺を立てる。並びに七仏薬師像を造る」とある。さらに新薬師寺には九間仏殿と東西塔が建ち、鐘一口があり、百人余の僧が住み、僧坊・寺園のあったことが記録される。

 天平17年(745)5月、紫香楽宮から平城宮へ帰った聖武天皇は9月には難波宮にあって病に倒れる。このため神社に幣帛、鷹鵜を放鳥、3800人の出家、大般若経100部の写経などとともに、京と機内の諸寺・名山・浄所での薬師悔過法を行って病平癒を祈らせている。またこの時、高さ6尺3寸の薬師像7体を造仏したことも『続日本記』に載るから、新薬師寺の九間仏殿に納められた七仏薬師とは周丈六のこの7体であったのだろう。

 七仏薬師は、経典に薬師如来は七つの化身をもつとあることに由来する。光背に七つもしくは六つの化仏を配した薬師如来はよく見かけるが、薬師如来丈六座像7体も造るというのは他に例があるのだろうか。7体にはそれぞれ日光・月光の脇侍がつき、別に12神将も安置されたから、東西50mをこえる堂が必要であったのだ。それだけ聖武の回復を願う光明の思いが強かったということであり、この途方もない物量作戦を可能にする経済力があったということだ。

 しかも新薬師寺の建立は北に1.5km離れた東大寺の造営と同時進行していた。新薬師寺の建設を担当した造香山薬師寺所は造東大寺司の一部門であったようで、平城京の東の山麓で天平期に繰り広げられた造営工事の壮観さは想像するにあまりある。

 これほどの大規模な造営工事が可能だったのは、律令体制が矛盾を抱えながらも国中ほぼ浸透していたからこそだろう。国の富と人材を総動員するシステムをフルに駆使して聖武天皇と光明皇后は寺院の造営に明け暮れたのである。

 発願から4年後の天平勝宝3年(751)の暮れには、金堂と七仏薬師はあらかた完成していたようだ。大仏開眼式を半年後に控えて、聖武太上天皇の病状は悪化した。新薬師寺に49人の賢僧が招集され「続命之法」が厳修された。これは、7層の燈を7仏それぞれの前に燃やし、5色の続命幡を懸け、7日7夜斎戒して行道読経し、雑類衆生を放生するという修法である。

 聖武が天平勝宝8年(756)に崩御した後も造仏工事が進められていたことは、正倉院に残る「造香山薬師寺所」の文書からうかがえる。総供養は宝亀3年(772)正月であり、25年に及んだ造営も終了した。しかしその8年後、西塔は雷火によって焼失している。

 平安時代に入っても新薬師寺は南都七大寺につぐ格式をたもち、事あるごとに国家祭祀を命じられている。応和2年(962)8月30日、南都に大風が吹き、東大寺南大門が倒壊、新薬師寺金堂も仏像とともに転倒破損した。朝廷は勅使を派遣して、聖武の佐保山南稜に寺修理の宣命を奏させた。しかし、結局再建は叶わなかったようだ。今回の調査でも10世紀の遺物が出土して応和2年の倒壊を裏付けている。

 それ以後、寺勢の回復はならず、元の境内の東端にかろうじて残った建物が本堂となって長い歳月が過ぎた。創建の新薬師寺が伝説の存在と化すに十分すぎる時間であった。土の中から現れた巨大な七仏薬師堂跡を見ながら、伝説が歴史へ変換する瞬間に立ち会ったような興奮を抑えられなかった。


●「奈良歴史漫歩No.49 七体七仏薬師の壮観、新薬師寺

●「奈良歴史漫歩No.48 春日奥山の香山堂

新薬師寺所在地マップ

 

西側から見た金堂跡全景。手前の石は礎石据え付け穴の地固め石


調査を指揮した奈良教育大学の金原正明准教授


礎石据え付け穴の地固め石。建物南西隅にあたる


基壇南東隅の延石



上)創建軒平瓦

左)創建軒丸瓦
●参考 「奈良教育大学構内遺跡2008年度調査」現地説明会資料 西川新次「新薬師寺」(『奈良古寺大観』岩波書店)
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